金子清和(Kiyokazu Kaneko)

金子清和(Kiyokazu Kaneko)

アナウンサー

救いの証

私が主イエスを救い主と信じたのは私が大学二年生の時です。当時私は建築を学んでおり、ヨーロッパの教会に見られるゴシック建築を見学したいと常々願っていましたが、教会がどこにあるのか知りませんでした。そんなある日、ふとしたことで一人の学生がクリスチャンであることを知り、彼から教会の場所を教えてもらいました。そしてその次の日曜日にその教会を訪れました。残念ながらその教会の建物は私が求めていたものとは違っていましたが、せっかく来たのだからと礼拝に出席しました。私はそこでキリスト教に対する興味を覚え、その後も月に一度程のペースでその教会を訪れるようになりました
私はその教会に半年ほど通いました。その間、説教の内容はまるでわからず、また、誰からも伝道されませんでしたが、聖書は特別なものだということは理解しました。それで、「聖書を読めばキリスト教が理解できるかもしれない」と考えた時、私はアパートの本棚の片隅で眠っていた、新約聖書のことを思い出しました。それは大学の入学オリエンテーションの日に、大学の校門でギデオン協会の方々から受け取ったものでした。
ある日私は、大学の図書館でその聖書を読んでいました。マタイによる福音書から読み始め、イエス・キリストが十字架に架かって死んだことを知り驚きました。マルコによる福音書をいくらか読んだところで聖書を閉じようとした時、裏表紙に何かが書かれていることに気付きました。そこには、『すべての人は罪人である』、『罪に対する神の救い』、そして『すべての人は今救われることができる』というタイトルのもとに、数節の聖書の言葉が印刷されていました。
実に聖霊なる神が私に臨んでいました。そこはいつもと変わらない静かな大学の図書館でしたが、どう形容して良いのか言葉が見つからないのですが、私は何か大きなものに迫られているような気配を感じていました。そして、そのはがき一枚ほどのスペースに印刷された先のタイトルと聖書の言葉だけで、私は救いに必要なすべてのことを悟りました。私は罪人であること、イエスが私の罪のために十字架にかかられたこと、そして復活されたことを信じました。そして一人静かに机の上に顔を伏せ、目を閉じ、小さな声で祈りました。それは1985年4月23日16時15分でした。祈り終わった帰り道、私は肩の荷がおりたような安堵感と、静かな喜びを感じました。
神は様々な要素を用いて私を救いに導いてくださいました。詳しくは書ききれませんが、私が大学でクリスチャンの学生と出会った経緯、ギデオン協会の聖書を受け取り保持していた経緯、また、私が家庭教師として教えていた生徒が実はクリスチャンで私の救いのために私の知らないところで祈っていたことなどは、それぞれ証するにふさわしい内容です。しかし最終的に人に救いを導くものは真理であり、神の言葉である聖書です。キリストを信じたときはもちろんそれ以降も、私はずっとこの聖書に記されている真理によって守られ、助けられ、支えられ、養われ、そして導かれてきました。霊的暗闇の中にあるこの世界に、特に日本に、唯一真の真理であるこの神の言葉が照らされるように、願ってやみません。