Hiroshi Inaba
アナウンサー
BBN愛知県の豊橋市で教会を牧する父と、手助けする母。この両親のも とに生まれました。クリスチャンホームで育ったこともあり、常に 聖書の教えを耳にする日常でありふれたことでした。両親からは私 が救われたのは、5歳の時だったと聞かされていましたが、その実 感があまりありませんでした。今振り返ってみても救いの確信がな い状態にあったのです。
その後、ペルー宣教師として両親は私と弟をつれて、宣教地で奉仕 しはじめました。6年たったと思います。14歳ごろに救いの確信 が無いことに気づきました。牧師、もしくは宣教師の息子としての 「いい子」を演じていたわけではありませんでしたが、「いい子と して育った」と言われる度に、「そんな訳でもないのに」と心の中 で思いながら、表面的に見える自分と、自分から見える自分の心の ギャップに大きな違和感を覚えていました。そこから、心の中にあ る罪の存在、そして本当の救いの確信がない事に気付くことになり ました。救いの確信がない不安にかられながら自室のベッドと、聖 書のある自分の机を行ったり来たりしながら、祈り、思い当たる救 いに関する聖句を聖書から探し出して読みながら自分の心を探って いました。不思議と両親に相談するという思いは浮かびませんでし た。
聖書をより深く読んでいく中で、全ての人々は罪の中にいる事、そ してそのままでは永遠に地獄で苦しむことを、はっきりと受け止め ました。そして、神様はすべての人々に悔い改めを命じ、イエスキ リストの十字架の血潮をもって救いの道を用意してくださった事を しりました(エペソ1:7、ヨハネ3:16-20)。それは、 人間全体というだけではなく、人間ひとりひとりに対する個人的な 救いの道だと、祈りの中で導かれ、それに気付いた時、神様の愛の 大きさをまのあたりしたことを覚えています。
祈っていく中でよく聞き、暗唱した聖句を通して、神様が私の救い の確信について平安を与えてくださいました。救いの確信を得たの は、ローマ書10:9−10を読んだ時です。祈りの中で、 キリストを私の主と告白し、自分の罪の代価を私に変わってキリス トが負い十字架で死なれたこと、キリストの復活のことを、 はっきりと信じ、そしてその聖書箇所に書かれている通りに、神様 は救いを与えてくださる約束を私にもしてくださる事を信じました 。
神様と密接に祈り対話する中で、自分の信仰が真の救いの道であっ たことは、クリスチャンホームで育った私には、 とても大きなことでした。救いに導いてくださった神様に深く感謝 しています。