救済論 – 救いの教理

聖書教理 – 確信すべき大切なこと

神学博士 Mark G. Cambron

第六章アウトライン

救済論

I. 悔い改め
A. 聖書箇所
B. 説明
C. 救いの現れ
D. 条件
E. 定義

II.信仰
A. 聖書箇所
B. 解説
C. 信仰の与えられ方
D. 信仰の核心
E. 信仰の結果

III. 新生
A. 聖書箇所
B. 説明
C. 絶対に必要なこと
D. 条件

IV. 義認
A. 聖書箇所
B. 説明
C. 条件
D. 実例
E. 現れ

V. 聖化
A. 聖書箇所
B. 説明
C. 条件
D. 定義

VI. 子にしていただくこと
A. 聖書箇所
B. 説明
C. 始まり
D. 完成
E. 現れ

VII. 贖い
A. 聖書箇所
B. 説明

VIII. 祈り
A. 確約されている
B. 祈りの例
C. 説明
D. 励まし
E. 実例
F. 規則
G. 条件
H. 限界
I.黙想

第六章

救済論

救済論は救いの教理です。

I. 悔い改め

A. 聖書箇所

「そのころバプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。 『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイ3:1, 2)
「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」(マタイ4: 17)
使徒パウロは「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」 (使徒 20:21)
「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示3:19
(参照:マルコ6:12; ルカ24:47; 使徒2:38; 11:18; 26:20; 2ペテロ3:9)

現在、「悔い改めを説教してはならない。悔い改めは救いには必要ではない。」と、主張する人々がいます。ですが、悔い改めはバプテスマのヨハネもイエス・キリストも、そして使徒パウロによっても説教されました。悔い改めは聖霊の降臨があった五旬節の前から説教され、五旬節の時も、そして五旬節の後にも説教されました。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)

B. 説明

1. 悔い改めとは何かを改善することではありません。悔い改めは完全に心の内面的な出来事です。悔い改めというと、多くの人は、それは自分の罪から遠ざかることを意味していますが、それは単なる改善です。また、悔い改めは、単なる行動として何かをすることではありません。人は自分の罪から離れ、なおかつクリスチャンではない、ということもあり得ます。

2. 悔い改めとは、後悔することではありません。ここで「後悔」とは、罪責感に対する苦悩とは違うということです。牢獄にいる多くの人々は、残念に思っています。では、彼らは自分が犯した罪のことを残念に思っているでしょうか? そうではありません。多くの人たちは自分が捕まったことを残念に思っています。ですが、本当の悔い改めは、罪に対する悲しみを確かに含んではいます。罪に対して残念に思うだけが悔い改めではありませんが、悔い改めに至ることもあります。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)

3. 悔い改めとは、懺悔することではありません。懺悔とは、何がしかの行動を伴う罪を悲しむ行為で、懲らしめを受けるといったような、罪の償いのことです。

4. 悔い改めとは、心を変えることです。原語における「悔い改め」の文字通りの意味は、「後からの思い付き」とか、「再考」です。「心を変える」とは、「意見が変わる」とか「気が変わる」といった、古い思いを新しい思いと取り換えることではありません。人格において新しくなったものです。本当の悔い改めとは、心の変化であり、行ないを変えるものです。しかし、心を変えないでも、行ないを変えることができることも覚えておきましょう。マタイ21:28-29は、その良い例です。
「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。」

人が救われる前には、悔い改めが必要です。罪、自己、神、そしてイエス・キリストを含めた多くのことについて心の変化がなければなりません。「主のしもべ」は「反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」(2テモテ 2:25)

悔い改めについてもう少し強い表現を用いるならば、悔い改めとは心を変えるだけにとどまらず、自分の確信を自分自身から離して、神様の側に置くことです。そつまり、悔い改めとは自己を裁くことです。

C. 救いの現れ

1. 知性の変化

2. 感情の変化

3. 意志の変化

4. 行動の変化

D. 条件

1. 神様のいつくしみ深さ。「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」 (ローマ 2:4) 参照:2ペテロ3:9

2. 神様の福音。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』…彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」 (使徒 2:37, 38, 41)

3. 聖書の教え。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」(2テモテ 2:24, 25)

4. 神様の懲らしめ。「悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。」(黙示 2:16) 参照:黙示 2:5; 3:3; へブル12:6-11

E. 定義

回心は神様の働きによるものです。神様と人との関係に関する人の考えを変化させます。後悔の悲しみから考えが変ることもありますが、回心は懺悔や後悔とは違うものです。回心は常に救いをもたらす信仰の一つの要素です。

II. 信仰

A. 聖書箇所

「福音は…信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマ1:16-17)「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 (ローマ3:28) 参照:マタイ9:22; 使徒26:18; ローマ4:5; 2コリント5:7; エペソ2:8; へブル11:6; ヤコブ5:15; 1ペテロ1:5

B. 解説

信仰とは、他への信頼、また、証言に対する依存です。本当の信仰は以下の各要素から成り立っています。

1. 知識。人は誰かを信じる前にその人について知らなければなりません。これは人に対してだけでなくキリストに対しても同じです。キリストについて聞くことなしに、キリストを信じることはできません。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17) 私たちは「信仰を増してください」と求めることがありますが、順番があります。信仰を増すには、神様のみ言葉をより沢山読むことが必要です。人は信仰を持つ前に、まず、その対象が存在することを知らなければなりません。

2. 確信。信仰の第二の要素は確信です。確信の意味を知らない人はいないでしょう。「確信する」とはその対象が真実であることを受け入れることです。人は、イエスという人物が救い主であり、イエスは救うことが出来ると信じることはできます。ですが、それだけでは人を救う信仰にはなりません。例えば、「椅子を信じる」とは、その椅子が存在することを知り、また、その椅子は人を支えられると信じることが必要です。そしてもう一つ、次の要素が必要になります。

3. 信頼。信頼こそ信仰の一番の要素です。救いをもたらす信仰の最も大重要な要素です。キリストが死んだことを信じることと、その真で蘇られた救い主キリストを信頼することはまったくもって別物です。もう一度、椅子を例にします。椅子が存在することを知り、また、その椅子は人を支えられると信じたとしても、実際にその椅子に座ることによって、初めてその人は椅子を信じたと言えます。あなたはキリストがあなたを救ってくださることを完全に信頼しているでしょうか?

4. 憩い。キリストに完全に全てを委ねること。人はベッドに横たわる時、完全にくつろいで休息します。同様にキリストを信頼する時、私たちはキリストに全てを委ね休息します。

C. 信仰の与えられ方

1. 父なる神によって。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」 (ローマ12:3)

2. 子なる神によって。「信仰の創始者であり完成者であるイエス…。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」 (へブル12:2)

3. 聖霊なる神によって。「ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物…が与えられています。」 (1コリント12:8-10)

D. 信仰の核心

信仰の対象はキリストです。それ以外にありません。

E. 信仰の結果

信仰の結果は救いです。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 (エペソ2:8, 9)

III. 新生

A. 聖書箇所

「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』…イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」 (ヨハネ 3:3, 5)。 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」 (1ペテロ 1:23)  「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」 (1ヨハネ 3:9) 参照:1ヨハネ 2:29; 5:4, 18。

B. 説明

1. 自己改善ではありません。生き方を一新して善い行いをすることが、神の子どもになることだと思っている人がいます。神に対する罪という理由ではなく、心臓の調子が良くないから禁酒するといったように、人は罪の行いから遠ざかることはできるでしょうが、それは新生ではありません。

2. 立ち直ることではありません。新生を立ち直ることと同じ意味で語られることがありますが、実際には立ち直ることは単に心の向きを変えることです。救われている人でも心の向きを変えることがあります。ペテロもそうでした。ペテロはイエスに「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われる前から救われていました。(ルカ22:31, 32)

3. 堅信ではありません。教会によっては、ある教会の儀式を授け、油を注がれることによって参加者(たいていの場合12~13歳)は聖霊なる神様を受けると主張しています。これは間違った教えです。人は人間の行いによって聖霊なる神様を受けるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じたときに、神様から授かるものです。

4. 洗礼ではありません。この世界のどんなものであろうとも、人を救う水は存在しません。「それではどうして洗礼が命じられているのか?」と思うかもしれません。洗礼は神様に対して行う誓約です。(1ペテロ 3:21b) 洗礼は、キリストの死と葬りと復活を単に表すものであって、それ以上の意味を持つものではありません。

5. 教会の会員になることではありません。確かに私たちはへブル人への手紙10章25節で「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」といわれています。ですが、教会に集うことによって罪人の中に変化をもたらすわけではありません。人間的な集まりは救いをもたらしません。私たちの魂の救いを任せられるような人間の集まりは存在しません。

6. 聖餐式に参加することではありません。聖餐式で預かる聖餐に救いの働きや罪の清めの力はありません。
聖餐式はキリストと、カルバリでなされたキリストの働きを覚えるために行うものです。私たちは主が帰られる日までこれを行います。

7. それは新しく生まれることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17) 「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」 (1ヨハネ 2:29)

C. 絶対に必要なこと

「あなたがたは新しく生まれなければならない。」主ご自身が宣言された絶対に必要なこと。

1. 人間の堕落のゆえに。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」 (ヨハネ 3:6 「あなたがたは新しく生まれなければならない」をより良く訳すと、「あなたがたは天から生まれなければならない」になります。やがて天国で生きるのであるならば、人は天から生まれなければなりません。

2. 人間の持つ普遍的な性質のゆえに。新しく生まれる必要ない人間はいません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)

3. 神様の聖さのゆえに。義であり聖なる神様によって、受け入れられ神の子とされるためには、人は聖くされるために非常に大きな変化を必要とします。「『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(1ペテロ 1:16)

D. 条件

1. 神様の働き。神の子どもになる過程は自然の力によるものではありません。人間は自分自身を新しく創造することはできません。それは人間の意志によるものではなく、神の意思によるものです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13) 実質的に、私たちは初めの誕生に何も関与せず、また、第二の誕生において何も関与できません。

2. 人間の働き。信仰を持った罪びとを申請させるのは神様ですが、人間がすべき役目があります。人は信じなければなりません。恵によって救われるのですが、それは信仰を通してなされます。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできませんが、まず罪びとが来なければなりません。罪びとは自分自身の信仰によってキリストを受け入れる必要があります。これが人間の分であり、残りは全て神様がなされます。

IV. 義認

A. 聖書箇所

私たちは「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:24) 「私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:24,25) 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 (ローマ5:1) 「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者(盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、等)でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」 (1コリント6:11)  参照: ローマ3:26; 5:9; ガラテヤ 2:16, 17; テトス 3:7

B. 説明

義認とは、「みなす、宣言する、または正しいと示す」ことです。義と認めることは、正しくするという意味ではありません。神はその人を正しくするのではなく、信じる人を正しいと宣言されます。義認という言葉は法的なもので、立場が良い状態のことを意味します。

人間の法廷では、法律は裁判官より権威があります。もし裁判官が正直で正しい人でしたら、その裁判官は一切憐れみを示しません。裁判官は被告人を有罪か無罪か宣告しなければなりません。神の律法において、信者は有罪であり、神の裁きの座に連れてこられ、無罪であると宣告されます。神は法律より権威あるお方です。

人間の法廷では、有罪の人が赦され、刑を免れたり罰金を免れたりすることがあります。神の法廷ではそうではありません。全ての罪は償わなければならなく、また、罪びとは罰を受けなければなりません。神の義認には三つのことが含まれています。

1. 赦し。「神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(使徒 13:37-39)

クリスチャンとは赦された犯罪者ではなく、正しい人です。神がそう宣言されています。クリスチャンは、主イエス・キリストによって、罪のための支払いがなされています。神はキリスト抜きにして決して赦しを与えません。

2. 転嫁。「幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。」(詩篇 32:2) 「幸いなことよ、 主が罪をお認めにならない人。」 (ローマ4:8) 「実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。」(ローマ5:13)

転嫁とは、「何かを押し付ける」ことです。つまり、義認においては、キリストの正しさを罪びとに押し付けることです。全ての信者の罪はキリストに押し付けられました。キリストが罪の負代価を払ってくださいました。代わりにキリストの正しさが信じる者のものとなり、神の御前に正しいものと宣言されるのです。

3. 交わり。「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」 (エペソ4:6) これは神様と信じる者の親子の交わりです。注意すべきことは、神は神の子どもたちだけの父であり、信じない者たちの父ではないということです。

C. 条件

1. 間違い

a. 働きではない。「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:4, 5) 参照: ローマ11:6.

b. 律法の行いではない。「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」 (Gal. 3:11) 参照: ローマ3:20; ガラテヤ 2:16.

2. 正解

a. 神による。 神は「ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ3:26) 参照: ローマ8:33.

b. 恵による。「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(テトス 3:7) 参照: ローマ3:24.

c. 血による。「今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」(ローマ5:9) 参照: ローマ3:24, 25.

d. 信仰による。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 (ローマ5:1)

e. 復活による。信仰によって私たちに転嫁される。「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」(ローマ4:24, 25)

D. 実例
1. アブラハム (ローマ4:1-5)

2. ダビデ (ローマ4:6-8)

3. ノア (へブル11:7)

E. 現れ

1. 行いにおいて。「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:21-23) 救いの証拠は感謝の現れ、行いです。多くの場合、それらは弱弱しいものですが、神様は私たちの思いを受け入れてくださいます。

2. 経験において。「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:1-5)

V. 聖化

聖化は救いの一面ですが、今日とても誤解されています。聖書を学び、神様が聖化について何と語っているかをしるとき、驚かれるでしょう。聖化に関わる体験について多くが語られており、私たちは体験の大切さを理解していますが、体験を土台に御言葉を理解するのではなく、み言葉を土台にして体験を理解するように注意しましょう。

A. 聖書箇所

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、…聖さにあずからせるためです。」(I Thess. 4:3, 7) 「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」 (1コリント1:2) 「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに…。」 (へブル2:11) 「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12:14) 参照: 1ペテロ 1:2; ヨハネ 17:17; 出エジプト 13:2; エレミヤ 2:3; エペソ 1:1。「聖化」、「聖さ」、そして「聖徒」は全て同じ語源の言葉から来ています。

B. 説明

1. 肉的な改善ではない。聖書のどこにも、聖霊の働きは古い性質をより良くすることであると言っていません。生まれつきの人間 は聖霊を理解できません。生まれつきのままの人間が聖霊によって進歩することはありません。信者になってもその肉体は未信者の肉体より優れることはありません。これは言いにくいことですが事実なので す。聖書は、「御霊によってからだの行いを殺す」ことを語っています。

2. 罪の性質を根絶することではない。信者は清めの体験をして、全ての肉的なものを焼き払い、罪を犯さない罪のない者になると信じる人々がいます。そのような体験を完全に否定しませんが、私たちはみ言葉によって自分自身の体験を吟味する必要があります。旧約聖書はヘブル語で、そして新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「聖化」、「聖さ」、そして「聖徒」は全て同じ語源の意味から来ています。

聖化とは罪の性質は根絶される体験でしょうか、次のみ言葉を見てみましょう。「全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具の油注ぎを行い、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。」(出エジプト40:10) ここに、根絶について何か記してあるでしょうか?祭壇は罪の性質を持っているでしょうか?次の例を見てみましょう。「モーセは主に言った。『民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。』」(出エジプト19:23) シナイ山は罪の性質を持っているでしょうか?「主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」(出エジプト19:22) 祭司たちは自分たちの罪の性質をどのようにして根絶したでしょうか?「『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。」(ヨハネ 10:36) ここでは、キリストご自身が聖とされた者として語っています。ここに罪の性質はありません!「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」(ヨハネ 17:19) これは、罪の性質を根絶したという意味でしょうか?そうではありませんよね。「信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」(1コリント7:14) 信者の妻は、未信者の夫から、夫の罪の性質を根絶できるでしょうか?もし聖化が罪の性質を根絶することだとしたら、次の御言葉はどういう意味でしょうか?「心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(1ペテロ 3:15) 肉的なクリスチャンは聖化されています。これは、罪の性質の根絶を言っていません。(1コリント1:1, 2 、3:1, 3)

3. 信心深く振舞うことではない。
聖化は、見せかけや偽善的な敬虔ではありません。また、偽りの聖人らしさでもありません。聖化は、ひげを伸ばしたり、黒っぽい服装をすることで見られるものでもありません。聖さが偽物か本物か、人は見分けることができます。

4. 第二の祝福ではない。2コリント 1:15 において、パウロは恵みについて語っているであって、第二の祝福について教えているのではありません。この手紙は、すでに聖なるものとされた人々へ書かれたものです。 (1コリント1:2、 6:11)

5. 「分け隔てられる」こと。根本的な意味は常に「分け隔てられる」、または「離れる」ことです。聖徒にしろ、または罪びとにしろ、聖化には目的のために常に分けられるという意味を持ちます。救われていない人は罪に対して自分自身が分けられる、あるいは自分自身を聖められます。「自分の身を聖別し、身をきよめて園に行き、 その中にある一つのものに従って、豚の肉、忌むべき物、ねずみを食らう者たちは、みなともに絶ち滅ぼされる。 ──主のことば。」(イザヤ66:17) イエス・キリストはご自身を聖別しましたが、これをキリストはご自身を罪のない状態にしたと言うのは冒涜です。安息日は聖別されたものですが、私たちは安息日自体罪の性質を持っていないことを知っています。

もう一度強調しますが、「聖化」、「聖さ」、そして「聖徒」という言葉は全て同じ言葉から派生しており、「分け隔てられる」、または「離れる」という意味をもちます。出エジプト 13:2の「聖別」、詩篇29:2の「聖なる」、そして篇34:9 の「聖徒」という言葉は同じものです。ヨハネ 17:17の「聖別」、ピリピ1:1の「聖徒」、へブル 12:10 の「聖さ」という言葉は同じ言葉から派生しています。

聖化、分け隔ては、三つの用い方で言われています。

a. 立場として。「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」 (1コリント6:11) 私たちは信じた瞬間に聖る者とされます。 上の御言葉は、私たちは義と認められる前に聖なるものとされると教えいています。つまり、第二第三の恵の業ではないのです。「主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。」 (2テサロニケ 2:13) 聖化は一番初めに起きることです。参照: 1ペテロ 1:2。神様は、私たちが神の子になるように努力することを決して許されません。神様はまず、私たちをご自身のために分け隔て神の子とし、それから私たちが神の子としてふさわしくなるようにと言われます。聖徒はまさしく神様の人なのです。

b. 実践するものとして。「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。」 (2コリント7:1) 「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」 (I1ペテロ 3:18)
これは私たちの聖化の現状です。聖徒は聖化に向けて成長するのではなく、聖歌の中で成長します。全ての信者は聖徒です。ただし、信者の中には聖徒として行動していない人もいます。クリスチャンでもまだ肉の中にあり、肉に従ってしまうこともあります。その時は、神様が聖霊なる神様を通してキリストによる懲らしめを与えます。参照:ヨハネ 17:17; 1テサロニケ4:3; へブル 12:10; 2コリント 3:18.

c. 完成するものとして。 聖化の完成は未来に起きるキリストの再臨の時に起こります。「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。」(1テサロニケ 3:12, 13)

C. 条件

1. 神様の側
a. 父なる神を通して。「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」(出エジプト13:2)
b.子なる神イエス・キリストを通して。「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」(へブル13:12)
c. 聖霊なる神を通して。「主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。」 (2テサロニケ. 2:13)

2. 人間の側
a. キリストの贖いの働きへの信仰。「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」 (1コリント1:30)
b. 御言葉の学びと従順。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」 (ヨハネ 15:3)
c. 献身。「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。」 (ローマ6:19)
d. 訓練。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。…すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」 (へブル12:6, 11)

D. 定義

1. 聖化はキリストの信者への働きであり、信者を神様に分け隔てるものである。

2. 聖化は信者の内になされる神様の働きであり、聖霊なる神と御言葉を通して、徐々にキリストの様に信者を変えていくものである。

3. 聖化はキリストの栄光の現れによって、信者をキリストの御姿に完成させる神様の働きである。

VI. 子にしていただくこと

A. 聖書箇所

「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」 (ローマ8:23) 「子にしていただくこと」という語は他にも次の四か所で使われています。 ローマ8:15; 9:4; ガラテヤ 4:4, 5; エペソ 1:5

B. 説明

「養子になる」という言葉の意味は、元々のギリシャ語とオリエンタルの風習と比べると大いに異なっています。現在において「養子にする」とは、誰かを他の家族から受けて、法的に自分の息子や娘にすることです。しかしギリシャ語では「息子・娘として置く」という意味で使われています。

新約聖書の時代、少年や少女が未成年のころは奴隷と何も変わりませんでした。(ガラテヤ4:1) 12歳から14歳の間、父親によって定められた日に、年齢に達した子供の祝会がなされます。それによって少年または少女は、息子または娘になります。そのとき、その家族の子どもとして生まれた少年または少女は、一定の年齢に達したので、息子または娘として宣言されるのです。同じことが信者においても言えます。信者は神の家族の容姿になったのではなく、神の家族に生まれたのです。彼は神様の子どもであり、「子にしていただくこと」によって神さまの息子・娘となるのです。

C. 始まり

「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4, 5)

D. 完成

私たちはもう神様の子どもです。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」(ガラテヤ 3:26) 私たちは父なる神によって定められた日に神の子供になります。その時、神様は私たちの神様の子供として公に表します。私たちは今は神の子供のように見えませんが、いつか世界が私たちは神様の子供であると認めるようになります。それはキリストの再臨の時に起こります。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(ローマ8:23)

E.現れ

1. 神の奴隷の恐怖から解放された。 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」 (ローマ8:15)

2. 子として所有された。

3. 成人としての特権と責任が与えられた。

VII. 贖い

聖書は贖いに満ちています。救いは神さまのご性質です。神さまは滅ぼしますが、救うことを愛しています。聖書のテーマはイエス・キリストです。御言葉のメッセージは贖いです。

A. 聖書箇所

「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。…もし、あなたのところに在住している寄留者の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたのところに在住している寄留者に、あるいはその寄留者の氏族の子孫に身を売ったときは、身を売った後でも、その人には買い戻される権利がある。彼の兄弟の一人が彼を買い戻すことができる。」 (レビ記25:25, 47, 48) 「シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。」 (イザヤ 1:27) 「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」 (エペソ1:7) 参照: ネヘミヤ 5:8; コロサイ1:4; ガラテヤ 3:13; 1コリント1:30; ローマ8:23.

B. 説明

贖いの意味を持つ言葉はヘブル語で四つあり、それらは全て「自由にする」という意味を持つ。「ゴエル」という言葉は二つの使われ方をします。一つは贖う人でもう一つは贖う行為です。「ゴエル」はいつも近親者です。「贖い」という言葉の意味は「自由にする」ことですが、贖いには「買い戻す、購入する」という意味を含みます。

神の子の贖いは、その近親者である主イエス・キリストによってなされます。このお方だけが、彼自身の貴重な血という贖いの代金をお持ちです!

1. 宣言されている贖い。
a. 完全に神様による。 (ヨハネ 3:16)
b. 人格ーキリストーを通して。 (1ペテロ 1:18, 19)
c. 血による。 (へブル9:12)
d. 力による。 (1コリント1:30)

2. 完成された贖い。「贖い」という言葉は次の三つの使われ方をされています。
a. 奴隷市場で買う・支払いをする。主イエス・キリストが罪の奴隷市場に下ってこられ、奴隷とされていた私たちを買われた。
b. 奴隷市場から解放する。 買われた奴隷は、主人によって奴隷市場から解放されます。私たちは私たちの主人が来て私たちをこの奴隷市場から解放してくださるのを心待ちにしています。
c. 放すまたは自由にする。主イエスは奴隷商人ではありません。また、奴隷の持ち主ではありません。いつの日か、主イエスは私たちを腐敗と罪の束縛から私たちを自由時されます。そして、神の子供としての完全な自由を知るようになります。

イスラエルにおいて、奴隷は自分の意志に反してずっと奴隷でいることはできませんでした。奴隷になった後、その人は近親者によって贖われるか、または、全ての奴隷が解放される安息の年やヨベルの年を待つことができました。ですが、もしその奴隷が自分の主人を愛し、どのようなことになっても自由になることを拒むのなら、その人は主人の所へ行き、自分の耳に穴を開けてもらい、生涯の奴隷として使えることが出来ました。(出エジプト21:6) パウロは、自分はイエス・キリストの生涯の奴隷である言いました。彼は血によって贖われ、愛によって結び付けられたのでした。比喩として言いますが、クリスチャンは自分の耳に穴を開けてもらうべきです。そう、耳、手、全て結ばれるべきです。自分はキリストと共に十字架にかけられたと認めるべきです。

VIII. 祈り

祈りはクリスチャンの人格を形成する必要不可欠な要素ですが、今日多くのクリスチャンは祈りに欠けています。その一つの理由は、祈りに対する誤解です。祈りとは、何かを願い受け取ることだと思われています。確かにそうですが、それ以上のものです。神様との交わりとしての祈りという価値を見失っています。 (イザヤ 43:21, 22; 64:6,7; ゼパニヤ1:4-6; ダニエル 9:13,14; ホセア7:13, 14; 8:13, 14)

A. 確約されている

1. 祈りをおろそかにすることは罪である。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。」 (1サムエル12:23)

2. 祈ることを神さまが定めている。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」 (マタイ7:7-11)

3. 祈ることを神さまが命じている。「絶えず祈りなさい。」 (1テサロニケ5:17) 「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」 (コロサイ4:2 )

4. 求めることが必要である。「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」 (ヤコブ4:2c)

B. 祈りの例

1. アブラハムのソドムのための祈り。(創世記 18)

2. ヤコブの初めての祈り。 (創世記 32:9-12) 個人的な祈りの例 (申命記 26:1-16; 出エジプト5:22)

3. ヨシュアと士師たちの主への叫び。 (ヨシュア7:6-9; 士師記10:14)

4. サムエルのとりなしの祈り。 (1サムエル 7:5, 12)

5. ダビデの感謝の祈り。 (2サムエル7)

6. 神様に心を注ぎだした信者たちの祈り。(詩篇 42:4; 62:8)

C. 説明

1. 長老教会の公会問答:「祈りは、神の御心にかなう私たちの願いごとを、罪の告白と神の憐れみの謝辞と共に、イエス・キリストの御名によって、神にささげることである。」

2. 聖書的な定義
a. 父なる神の御許へ行く子供として。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」 (ローマ8:15)
b. 父なる神に向かって叫ぶ子供として。「主よ、あなたはどなたですか。」 (使徒 9:6)
c. 父なる神と共にいることを願う子供として。「ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。」(1歴代誌I Chron. 4:10)
d. 父なる神にお願いごとをする子供として。「彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。」(1列王記 8:35, 36)
e. 父なる神にとりなしの祈りをする子供として。「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」 (黙示録5:8) 参照: 黙示録8:3-4.
f. 神の御前に静まって待つ子供として。「主よ あなたは貧しい者たちの願いを 聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。」 (詩篇 10:17)

3. 人間の体験。(これは、神の聖徒たちが祈りを通して発見した真理を意味します。)
a. 神様に安住する熱心な思い。
b. 困難な務め。 (コロサイ 4:12)
c. 業務

D. 励まし

1. 神様が祈りに答えてくださるという、多くのクリスチャンの沢山の証し。

2. 誰であれ、何であれ、何時であれ、という普遍的な聖書の言葉。

3. お祈りする信者への神様の豊富な約束。

4. イエス・キリストを通して近づけるという確信。「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」(へブル10:19-22)

5. 聖霊なる神様による助けの保障。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」 (ローマ8:26)

6. キリストによる神の黙示。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ 1:18)

7. キリストにある途絶えない恵みの供給。「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」 (ピリピ 4:19)

8. 信仰の限りない可能性。「イエスは言われた。できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ 9:23)

9. 神様のありあまる能力。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」 (エペソ3:20-21)

E. 実例

1. ソドムのためにとりなしたアブラハム (創世記 18:22, 23; 19:29)

2. アブラハムの僕の祈り (創世記 24:12)

3. ヤコブの個人的な祈り (創世記 32:9-12)

4. モーセのイスラエルのためのとりなし (出エジプト32:11-14, 30-34; 民数記14:11-21)

5. サムエルの王と人々へのとりなし (1サムエル12:6-25)

6. 炎と水を求めて祈ったエリヤ (1列王記 18:25-41; ヤコブ 5:17, 18)

7. ネヘミヤのエルサレムのための祈り (ネヘミヤ2:4)

8. 理由を求めたヨシュアの祈りt (ヨシュア7:7-9)

9. 回復する力を求めたサムソンの祈り (士師記16:28)

10. 子どもを求めたハンナの祈り (1サムエル1:10, 11)

11. ダビデの悔い改めの祈り (詩篇 51)

12. 知恵を求めたソロモンの祈り (1列王記 3:5-9)

13. 神殿を奉納したソロモンの祈り (1列王記 8:25-53)

14, 解放を求めたヨナの祈りヨナ (ヨナ 2)

15. ハバククの賛美の祈り (ハバクク 3)

16. 聖徒のためにとりなしを祈ったパウロ (エペソ1:15-23; 3:14-21; コロサイ 1:9-14)

17. イエスとともに十字架にかけられた犯罪人の赦しを求める祈り (ルカ23: 42, 43)

18. 魂を委ねたステパノの祈り (使徒 7:59, 60)

19. 力を求めたイエスの祈り (マタイ26:27-46)

20. 聖書に記された最後の祈り (黙示録22:20)

F. 規則

1. 祈りの時の体の姿勢について。祈りの時の体の姿勢について多くの思い違いがなされています。お祈りする時、膝をつかないとそれは祈りではないと思う人たちがいます 。例えば歩きながら祈ることは 無礼だと考える人がいます。次の御言葉は、お祈りの時の体の姿勢は問題ではないということを教えています。

a. キリストは地面に顔をつけて祈った。「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」 (マタイ26:39)
b. ソロモンはひざまずいて祈った。「こうしてソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えた。彼は、それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた主の祭壇の前から立ち上がり、」(1列王記 8:54)
c. ペテルは溺れる途中で祈った。「主よ、助けてください」 (マタイ14:30c)
d. 犯罪人は十字架にかかりながら祈った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 (ルカ23:42)
e. エリアは顔を膝の間に入れて祈った。「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。」 (1列王記 18:42)
f. ダビデはベッドの上で祈った。「私は嘆きで疲れ果て、夜ごとに 涙で寝床を漂わせ 、ふしどを大水で押し流します。」 (詩篇 6:6)

2. 祈りの時間に関して。祈りの時間に関してたくさんの詩が書かれています。 クリスチャンは、主と二人だけになる最適な時間を選択すべきです。この点においても、聖書には明確な規定は書かれていません。 次の例をご覧ください。

a. ダニエル:1日3回。「ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」 (ダニエル 6:10)
b. キリスト:朝早く。「イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」(マルコ 1:35)
c. ペテロとヨハネ:祈りの時間(午後3時)。「ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」(使徒 3:1)

3. 祈りの場所に関して。神様が今日、人とどこで出会うのでしょうか?「イエスは彼女に言われた。『女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。…しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。』」 (ヨハネ 4:21, 23) ここでも特定の場所が選ばれていないことが分かります。

a. 園で祈られたキリスト。「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。」 (マタイ26:36)
b. 草の上で祈られたキリスト。 「そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。」 (マタイ14:19)
c. 山で祈られたキリスト。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ6:12)
d. 嵐の中、船の上で祈ったパウロ。 (使徒 27) クリスチャンはどこで祈るべきでしょうか?キリストは次のように言われました。「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」 (マタイ6:6) 奥の自分の部屋とはどこでしょうか、また、どのようにして扉を閉めるのでしょうか?僕の部屋とは、信者が自分自身を外の世界から締め切る場所です。それはバスの中かもしれませんし、道を歩いてる時かもしれません、または、扉を閉めた部屋かもしれません。それはクリスチャンと神様が二人きりになる場所です。

G.条件

私たちの祈りが聞かれるために、必要なものは何でしょうか?クリスチャンこそ、求めたらを受けるべき存在です。次の真理は祈りが答えられることを保証しています。

1. 自信を持つ。 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 (へブル11:6)

2. 熱心さ。「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 (ルカ11:9) 求める: マタイ 7:7; 探す: ヤコブ 5:17; 叩く: 使徒 12:5.

3. 確信する。 「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:11)

4. 継続する。「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」 (コロサイ 4:2) 参照: ルカ18:1-8.

5. 信仰。 「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 (マルコ 11:24)

6. 従順。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(1ヨハネ 5:14, 15) 御心に従って求め、二人が一致するなら、祈りは答えられると保証しています。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)

H. 限界

1. 霊的な冒涜によって。 これはエサウの人生によって明確に表現されています。パウロは私たちにこの出来事からよく学ぶように求めています。「また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」 (へブル12:16, 17) エサウは長子の権利に付随する祝福を手放してしまいました。彼が売ったものは永遠になくなってしまいました。クリスチャンの人生において失って日々と失ったチャンスは過ぎ去りました。過去は永遠に失われました。

2. 司法に関わる罰則によって。「それゆえ、彼らに告げて、こう言え。『神である主はこう言われる。心の中に偶像を秘めて、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、その偶像の多さに応じて、主であるわたしが答える。」 (エゼキエル14:4) 参照: 申命記 3:25-27; エレミヤ 15:1.

3. 行動の欠如によって。「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。」 (出エジプト14:15) 確かに、「しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」という時もありますが、進むべき時もあります。

4. 偽善によって。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」 (マタイ6:5)

5. 肉的なモチベーションによって。「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4:3)

6. 不信仰によって。「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1:6, 7)

7. 心に抱く罪によって。「もしも不義を 私が心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。」 (詩篇 66:18)

8. 求めないことによって。「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」 (ヤコブ4:2) この御言葉と次のマタイの福音書の御言葉とは矛盾すると考える人がいます。「彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ 6:8) もし父なる神様が私たちの必要を知っているのなら、どうして祈るべきなのかと考えます。この考えはたくさんのクリスチャンの祈りの生活をそこなってきました。 ですがそうではありません、確かに父なる神様は私たちの必要を全てご存知です。もしそうでなければ神様ではありません。 父なる神様の知識は私たちが必要なものを手に入れるという保証ではありません。 「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」父なる神様は私たちの必要をご存知です、ですが私たちは祈らなければなりません。いずれにせよ、私たちは神様を欺いて、私たちが必要でないものを求めてはいけないと警告されています。

I. 黙想

「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」 (1テモテ2:5)「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(エペソ3:12) 参照: ヨハネ 16:24-26, 「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」 (エペソ2:18)父なる神に、御子を通して、聖霊によって、これが私達が祈りを捧げる方法です。祈りには次のことが含まれます。

1.敬愛

2. 感謝

3. 告白

4. 懇願

5. とりなし