罪論 – 罪の教義

Bible Doctrines – Beliefs That Matter
by Mark G. Cambron, D.D.

第5章 アウトライン V

罪論

I. 罪の起源

A. 世の罪のはじまり
B. 人類の罪のはじまり

II. 罪の現実
A. 聖書による罪の事実の宣言
B. 自然界による罪の事実の宣言
C. 法による罪の事実の発見
D. 経験による罪の事実の証明
E. 罪の事実に対する人の告白

III. 罪の性質
A. 罪の現代的な見方
B. 罪の聖書的な見方
C. 罪についての聖書の見解
D. 罪の神学的定義
E. 罪に関する聖書の概要

IV. 罪の範囲
A. 天に関して
B. 地に関して

V. 罪の領域
A. 行動として
B. 状態として
C. 本性として

VI. 罪の刑罰
A. 受けるべき刑罰
B. 確実な刑罰

第5章

罪論

罪論(Hamartiology)は、ギリシャ語の「罪」を意味する「ハマルティア」から生まれた言葉です。そのため、罪論は、罪に関する教理です。

I. 罪の起源

A. 世の罪のはじまり

エゼキエル書28:11-19には、この世に罪をもたらしたのがルシファー(悪魔)でありことが分かります。「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に放り出し、王たちの前で見せ物とした。」ルシファーが罪を犯し、悪魔ーサタンになるまで罪はありませんでした。ルシファーにとって、神よりも自分に価値を置き、神のようになろうとしたのが最初の罪でした。なぜ世に罪が入るのを神が許されたのかは、私たち人間には知らされていません。

B. 人類の罪の始まり

人類の中に罪があるならば、罪の始まりがあったに違いありません。もし、罪に始まりがなければ、人は罪の中に創造されました。したがって、神は、罪の創造者でしょうか、いえ、違います。罪は、不信仰による欺き、不順順を通して人類に入って来たのです。「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。」(Ⅰテモテ2:14)なぜ、神は人が罪を犯すことを許されたのでしょうか?私たちに与えられた考えられる答えは、エペソ人への手紙2:7です。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。」

II. 罪の現実

A.聖書による罪の事実の宣言

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ人への手紙3:23)。「聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした」(ガラテヤ人への手紙3:22)。

B. 自然界による罪の事実の宣言

「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」(ローマ人への手紙8:22)。

C. 法による罪の事実の発見

“By 「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です」(ローマ人への手紙3:20)。使徒パウロは、神の律法の鏡を見るまでは、罪から解放されていると考えていました。「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう」(ローマ人への手紙7:7b)。

D. 経験による罪の事実の証明

モーセやダビデ、ペテロ、ヨハネは罪の存在を示していました。私たち自身の経験からも分かります。

E. 人の罪の事実の告白

1. 信仰者たちは、自分の中に罪があることを認めています。ヨブは、私は卑しく、自分自身を憎む、と告白しています。イザヤも、私はだめで、けがれていると言いました。罪を犯したことが語られていないダニエルでさえ、顔の輝きも消え失せ、力を失った、と語っています。エレミヤは、私は真っ黒である、ペテロも、泣きながら、私から離れてください、私は罪深い者です、と告白し、パウロも、キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた、私はその罪人とのかしら、と言っています。ルターも、「教皇やすべての枢機卿よりも、私自身の心を恐れている」と言い、ムーディーも、「私が何より困っているのは、私の帽子の下を歩いている人間です」と話しています。

2. 罪人は、自分の中に罪があることを認めています。聖書のあらゆるところに、罪人の告白や罪について書かれています。ファラオは告白しました。「今度は、私は罪を犯した」(出エジプト記9:27b)。アカンは答えました。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました」(ヨシュア記7:20b)。バラムも認めました。「私は罪を犯しました」(民数記22:34b)。イエスを裏切ったユダでさえ、「私は罪を犯した」(マタイの福音書27:4)と告白しています。

III. 罪の性質

A. 罪の現代的な見方

1. 社会は、罪を「無関心」と言います。

2. 学者は、罪を「無知」と呼びます。

3. 進化論者は、罪を「動物の特徴」と考えます。

4. クリスチャンの科学者は、罪を「善の欠如」と教えます。

5. 肉的な人は、罪を「愛らしい弱さ」と正当化します。

6.新しい神学者は、罪を「単なる利己主義」と宣言します。

B. 罪の聖書的な見方

1. 罪は的外れを意味しています。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ人への手紙3:23)とあります。また、ローマ人への手紙5:12を読むと、罪は、神の目的から外れていることを指しています。

2. 罪は違反です。「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです」(Ⅰヨハネの手紙3:4)。律法の違反とは、故意のもの、または、意図的でなものも含んでいるでしょう。どちらも罪です。律法が与えらえる前にも罪がありましたが、違反ではなかったのです。参考:民数記4:15、ヨシュア記7:11,15、イザヤ書24:5、ダニエル書9:11、ホセア書6:7, 8:1

3. 正義を曲げるのが罪です。「義」は、まっすぐであることを意味しています。罪は、かつてまっすぐであったものを曲げているのです。「ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。『ご覧ください。この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように』」(Ⅱサムエル記24:17)。参考:ローマ人への手紙1:18、6:13、Ⅱテサロノニケ人への手紙2:12、Ⅱペテロ2:15、Ⅰヨハネ5:17

4. 罪は、神に対する反逆です。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」(イザヤ書1:2)。参考:Ⅱテサロニケ人への手紙2:4,8

5. 罪は負債です。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイの福音書6:12)。ルカの福音書11:4にも書かれています。また、「なすべきこと」(ルカの福音書17:10、ヨハネの福音書13:14)、「しなければならないこと」(Ⅱテサロニケ人への手紙2:13)はすべて、負債を意味する同じギリシャ語から来ています。

6. 罪は不従順です。罪は、神に従わないことを意味しています。「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ人への手紙2:2)。参考:エペソ人への手紙5:6、ヨハネの福音書3:36

7. 罪は、神の要求に応えないことです。これは堕落を意味しています。神に対するすべての反抗は、堕落です。罪は、常に痛みをともないます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタイの福音書6:14)。参考:ガラテヤ人への手紙6:1、ローマ人への手紙5:15-20

8. 罪は不信仰です。「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです」(Ⅰヨハネの手紙5:10)

9. 罪は不敬虔です。「働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」(ローマ人への手紙4:5)。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました」(ローマ人への手紙5:6)。参考:Ⅰテモテへの手紙1:9、Ⅰペテロの手紙4:18、Ⅱペテロの手紙2:5,7、ユダの手紙4,15

10. 罪は不正です。どのようなことが道徳的秩序から逸脱しているのか聖書は教えています。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、ねたみ、泥酔、遊興、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」(ガラテヤ人への手紙5:19-21)。参考:コロサイ人への手紙3:5-9、マルコの福音書7:19,20

C. 罪についての聖書の見解

「不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります」 (Ⅰヨハネの手紙5:17)。参考:Ⅰヨハネ3:4、箴言14:21, 21:4, 24:9、ローマ人への手紙3:23, 6:23, Ⅰサムエル記15:23、エレミヤ書3:25, 14:7、ヤコブの手紙2:9、4:17、ローマ人への手紙14:23

D. 罪の神学的定義

1. 罪は、違反であり、神の法からの逸脱を意味しています。

2. 罪は、神と人への愛の不完全な愛です。

3. 罪は、神よりも自分を優先させることです。

4. 罪は、反抗です。

5. 罪とは、行動、性質、または状態において、神または神の道徳律に適合しないことです。

6. 罪は、すべきではないことをしてしまうことです。

E. 罪に関する聖書の要点

1. 神に対して
a. 謀反。「従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪」Ⅰサムエル記15:23a。
b. 神をこよなく愛さないこと。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)。

2. 神の法に対して
a. 計画的な犯罪。「この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる」民数記15:30。
b. 無知のよる違反 「もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない」(民数記15:27)。参考:ヘブル人への手紙9:7

3. 人に対して
a. 不義。「あなたの隣人を虐げてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで自分のもとにとどめておいてはならない」(レビ記19:13)。
b. 自分のことのように神を愛さないこと 「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。

4. 自分に対して
a. 自己中心。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」(マタイの福音書16:26)。
b. 堕落。「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました」(詩篇51:5)。

IV. 罪の範囲

A. 天に関して

聖書によって、罪と救いがともに天から始まり、地上にもたらされましたことが分かります。罪は、サタンの堕落によって、天で始まりました(エゼキエル書28章)。そして、救いは、キリストの仲裁によって、天で完成されました(ヘブル人への手紙9:24)。

B. 地に関して
植物の王国。「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる』」(創世記3:17,18)。イザヤ書55:13は、キリストが来られる時、のろいから解放される祝福を語っています。「茨の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

2. 動物の王国。人が堕落する前、人を襲う動物はいませんでした。イザヤ書11:6-9は、キリストが再臨されるときに、こののろいから解放されると約束しています。「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

3. 人間
a. 罪の世界。すべての人は罪人です。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ人への手紙3:23)。
b. 全的堕落。すべての人は、肉体において、魂において、霊において、罪深い存在です。「すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」(ローマ人への手紙3:12)、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(ローマ人への手紙3:18)、「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」(ローマ人への手紙3:19)。

V. 罪の領域

A. 行動として

人は、行動によって罪を犯します。

B. 状態として

人は、義を失ってます。

C. 本性として

人は罪の中で宿り、罪の中で生まれました。だからこそ、人は生まれながらに罪人です。

VI. 罪の刑罰

A. 受けるべき刑罰

これは、特定の食べ物を食べることを禁じられていた子供の例を用いることができます。その子は、その約束を守ることができず、食べすぎて、その結果、病気になってしまいました。その子の聴き従わなかったことへの報いは、病気でした。受けるべき罪の罰は、病気であり、失望であり、肉体的な死です。

B. 確実な刑罰

上記の例えから、受けるべき罰が病気であることを見てきました。そして、その子の父親からの体罰も避けられないかも知れません。罪の確実な刑罰は以下のようなものです。

1. 死。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6:23)。聖書は、死を決して「消滅」や「完全な破壊」を意味していません。「死」が「消滅」をあらわしている聖書の言葉はありません。
a. 霊的な死。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです」(Ⅰテモテへの手紙5:6)
b. 永遠の死。「死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である」(ヨハネの黙示録20:14)。「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります」(Ⅱテサロニケ1:7-9)。参考:ヨハネの黙示録20:12, 21:8。人が創造されたとき、罪はありませんでした。 人は神と共に永遠に住むために創造されました。死は、「すべての人に広がった」(ローマ人への手紙5:12)のです。「広がった」という言葉は、ルカの福音書2:35の「刺し貫く」、マタイの福音書19:24の「通る」、Ⅰ コリント人への手紙10:1の「通って」と訳されています。

2. 滅び。「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした」(ヨハネの福音書17:12)。この「滅び」と言う言葉は、「滅び」(ヨハネの福音書3:16)や「滅ぼす」(マタイの福音書10:28)と同じです。

3. さばき。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」(ヨハネの福音書3:18)。「さばき」という言葉は、法的な用語であり、裁決を指しています。この「さばき」は、ヨハネの福音書5:29、マタイの福音書11:22,24、Ⅱペテロの手紙2:4,9、3:7、Ⅰヨハネ4:17、ユダの手紙6にも記されています。

4. 有罪。「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」(ローマ人への手紙3:19)。

5. 地獄。「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです」(ピリピ人への手紙1:27,28)。参考:ヨハネの福音書17:12、Ⅱテサロニケ人への手紙2:3、ヘブル人への手紙10:39、Ⅱペテロの手紙3:7、ヨハネの黙示録17:8,11。この「滅び」という言葉は、マタイの福音書7:13でも、「滅び」と同じように訳されています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」参考:ローマ人への手紙9:22、ピリピ人への手紙3:19、Ⅱペテロへの手紙3:16。マタイの福音書26:8では、「むだなこと」と訳されています。「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。」マタイの福音書9:17の「裂ける」は、「地獄」と同じ言葉が使われています。「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

6. 刑罰。「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(マタイの福音書25:46)。この聖書箇所とヘブル人への手紙12:6には違うがあります。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」刑罰は、罪人に対するものであり、懲らしめは、クリスチャンに対するものです。

7. 永遠ーとこしえ。「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(マタイの福音書25:46)。参考:ユダの手紙6、Ⅱテサロニケ人への手紙1:9、ヨハネの黙示録20:10、14:11。この「永遠」という言葉は、「長い年月」、「一つの年代」を意味しています。言い換えれば、罪に定められた罪人は、ある期間だけ、地獄の火に耐えれば良く、その苦しみのあと、彼らは、クリスチャンと共に永遠の安息に入る可能性を示しているようにも思えます。しかし、もし、地獄や刑罰が永遠に続かないのなら、永遠のいのち、永遠の救いというものもありません。同じ言葉の「永遠」は神の言葉として使われています。「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」(ヘブル人への手紙9:14)。「私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方」(ローマ人への手紙16:25,26)。もし、呪いの地獄の刑罰が永遠ではなく、また、救いも永遠でないなら、神は永遠ではありません。しかし、神は永遠に存在されるお方です。だからこそ、救いは永遠であり、刑罰も永遠です。